死についてのコラム 本文へジャンプ
終末期について


終末期の現状〜ご本人が主人公の終末期の文化へ】

●終末期とは?

日本医師会の「老人診療マニュアル」では、終末期にも前期・中期・後期とわかれるようです。前期とは、余命6ヶ月〜数カ月。中期とは、あと数週間。

後期とは、あと数日と推定される期間をいいます。そのあとは、死亡直前期というのだそうです。
 
「終末期とは、治療で回復の見込みがなく、数週間ないし数カ月(およそ6ヶ月以内)のうちに死亡するだろうと予期される状態になった時期をいう」
といわれています。

以上の定義を読まれてお気付きかとは思いますが、
「終末期って期間を決めるのはやはりお医者さんなんだ」


「『推定』や『予期』する医者次第で終末期の期間が変わるのか?」
など、納得とともに『疑問』も出てきますよね。


私は、昔から上記の終末期の定義に違和感がありました。


●誰のための終末期か?

「自分の死を他人にとられてなるものか!本人の手に死を取り戻そう!」
と、フランスの歴史学者フィリップ・アリエスは、こう言いました。

現在に至っても同じ現象が起きています。
想像しやすいようにリアルな例え話をしますね。

「私は自分がガンであると薄々気づいていました。家族には自分がガンの場合には告知してくれるよう伝えてありました。家族の対応がぎこちなくなり余命3ヶ月となった今になって終末期にあると宣告されたのです。
医師と家族は私が余命6ヶ月のころから末期ガンと知っていたわけで、私、ひとりだけとり残されたような、裏切られたような気持ちがしています。
3ヶ月前だったらまだ体力もあって旅行や死への準備がもっとできたはずなのに、なぜ私の人生、私の終末期が私のものではないのでしょうか?」


どうでしょうか?
このような事例は少なくありません。

医療の現場において告知はとてもデリケートな問題なことは確かです。

最近は、告知の有無よりまず、本人に告知することが前提となり、どのように伝えるかの方に焦点が当てられてきているようです。

でも、本人への余命告知率は現在30%くらいと言われているように、まだまだ終末期は医者や家族のものとなってしまっている現状は根強く残っていると思います。
(※余命告知することが最良だとは思いませんが…)


●終末期の違和感の正体

終末期に決定的に欠けているものがあります。

それは、
「本人の選択肢」です。

(※他にも「必要で欲しい情報」や「自己表現の場」も欠けています!)

余命を知るという選択、知ってからの選択もさることながら、知った後に終末期の生活にどのような選択肢が出てくるのかがわからない状態に陥る可能性があるのです。

本人の選択肢とは、本人が選択する『意思』が必要なのです。言い換えれば、意識や感情があるうちに選択するからこそ、本人の選択肢になりうるのです。

そのように考えると、終末期の定義を「病気の段階や身体的な基準」で判断するより、「意識・感情のある本人の意思」で終末期の期間が決まっていくというほうが自然のような気がするのです。


●終末期の再定義?

私は『終末期』を「医療的終末期」と「社会的終末期」とまず、分けた上で、社会的終末期の定義として、
「本人が死を強く意識されてから、欲求が自己表現され続ける期間」と表し、医療的終末期よりも優先的に使っていきたいと思います。

なぜなら、医療的終末期には意思や感情という『欲求』が自己表現されづらいですからね。

「家族に感謝を伝えたい」とか「やすらかに死にたい」などの意思やその時に起こる感情は、本人の欲求から喚起されるわけで、それら死ぬ前に沸き続ける欲求が無くなった時点が本人にとって、もはや死と同じようなものなのではないでしょうか?
 
欲求があるにもかかわらず選択肢が少ない(もしくは無い)、さらには、医師やご家族に無視されている本人の終末期っていったい…。

「本人が主人公の終末期の文化」

医療的終末期より社会的終末期が尊重される時代が遠からず訪れることを私は信じています。


●これからの終末期の文化

私は、「健康で活き活き元気に、長生きに!」という社会風潮を押し付けるのは、もう時代遅れになってきているように感じます。

健康や長生きよりも「人生最期まで豊かにやすらかに」という生き方(死に方)の方に魅力を感じるのです。

確かに元気で健康、長生きということを最良に思う方は多いのですが、「長生きなんかしなくていいから、自分の思うように過ごせればいいよ」とか、「もうサプリメントや医薬品ばかりでうんざりしているんだよ」などいうご意見が特に団塊の世代の方に少なくありません。

これからの終末期の文化は、団塊世代(以上)の方々の終末期の生き方(死に方)に注目がいくことになるでしょう。

団塊世代の方は、今までの慣習や文化以外でも、自分らしさを発揮される方や、自分らしいこだわりの時間を持っている方がいます。

(※ここで言う「自分らしさ」とは自分の興味の範囲が決まっている、自分の役割を自覚しているなどを前提に、自分の人生に対して主体的傾向が強く動けているという意味です。)

例えば、老人の代表的なスポーツでもあるゲートボールを団塊世代の方がすすんで行うかといったら、どうでしょう?

おそらく飛ばなくてもゴルフをするかもしれません。また、他に自分らしい遊びや時間の過ごし方を知っているかと思われます。

自分らしさやこだわりなどが終末期にも反映すると考えると、終末期の文化も変わるのではないかと思うのです。

もし、今まで通りタブー視された文化のままだと、例えば、おじいちゃん、おばあちゃんの人生が腫れ物を触るかのごとく最期の最期でないがしろにされ、孫にまで「あんな最期は嫌だな」と思われるような暗い終末期の文化になってしまうかもしれません。

死のタブー視でキッカケが得られなかったばかりに自己表現ができず、迷惑をかけたくないと思っていたのにも関わらず周りに迷惑がかかってしまうとしたら本末転倒なことです。


団塊の世代の方だけでなく、私も、このホームページを読んでいるあなたも含め、これから終末期を迎える人々が死生観を発揮し、心豊かにやすらかに枯れていく様を身内などと共有された際には、次世代へ「あんな終末期を送りたい!」「そのためにはおじいちゃん(お婆ちゃん)のように優しく思いやりのある人になりたい」と思わせる強烈なメッセージになるのではないでしょうか?

自分らしい死に様を見せることで、子どもや次世代の人が、年齢の重ね方を見本にし、生きてきた証の伝え方を知り、そこでさらに自分自身を見つめるキッカケとなることでしょう。

そのようなサイクルになれば、タブーのはびこる文化から、本人が主人公の終末期の文化になっていくのだと考えます。

日本の終末期、いや、日本の将来を明るくするには今この時期にかかっていると思います。


※セミナーや勉強会を開催しています。ご興味があるかたはこちらをクリックしてください。


                   次のコラム「死を味わうということ」はこちら



Copyright(c)2008 (株)リニア・コーポレーション, All rights reserved.

トップページへ